『同窓会に行けない症候群』の背景にある 室生犀星に『異土の乞食となるとても帰るところにあるまじや』と書かせた「地方を滅ぼす『成功者への妬み』のひどい構造」‼️ #同窓会 #室生犀星 #幹事 #マスコミ
🔷詩人 室生犀星(むろお さいせい)にとって“故郷(ふるさと)”とは❓
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさと思ひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
(出典:室生犀星 『抒情小曲集』1918年)
明治22年に金沢市で足軽頭の庶子として生まれ、真言宗寺院に養子に出され、幼少期を「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」いじめられて育った犀星の原体験を色濃く反映する有名な作品だ。
この詩の通り、文壇に盛名を得た昭和16年(1941年)を最後に、故郷 金沢に帰ることはなかったという。その後は、犀川の写真を貼って故郷の何かをしのび昭和37年(1962年)に亡くなったという。
いったい何が犀星をしてこのような哀しい詩をよませたのだろうか⁉️ 遠き“ふるさと” は彼に何をしたのだろうか?おそらく永遠の謎だろう。
🔷 「ひそかに激増中『同窓会に行きたくない人たち』とその理由」
先月こんな記事が載った。出典:Business Journal 2019.09.12
「まずは自問自答してみてほしい。自宅のポストに小中学校の同窓会の招待状が来ていたら、あなたは参加するだろうか? それとも不参加だろうか? もし不参加だとしたら、その理由はなんだろうか?
■今ひそかに増えている『同窓会に行きたくない』人たち
もちろん、誰しもにとって同窓会は『楽しみな会』というわけではない。
たとえばクラス内でいじめられていた人は、わざわざ当時の人間関係の中に戻りたくないはずだ。クラスメイトと結婚したが、離婚するなどして『会いたくない人』ができてしまった人も同様だ。あるいは太ってしまったり、薄毛になってしまったりと、風貌が当時と変わりすぎてしまった人も、同窓会の場で昔のノリそのまま無遠慮に突っ込まれるのはごめんこうむりたいところだろう。
しかし、そうした要因だけでは説明がつかないほど、今『同窓会に行きたくない人』が増えているのをご存じだろうか?
■同窓会が小規模化している理由
『同窓会に行けない症候群』(鈴木信行著、日経BP刊)は、学年全体やクラス全体といった大規模な同窓会が減り、小規模化していること。そして同窓会そのものに行きたくない人が増えている現実を指摘。その理由を考察している。
SNSが普及し、あえて同窓会を開かなくても親しかったメンバーと集まりやすくなったこと。そして個人情報保護法によって、大規模な同窓会に必要な名簿が作りにくくなったこと。これらは同窓会の小規模化の理由として理解できる。しかし、『同窓会に行きたくない人』が増えたのには、また別の背景があるようだ」。
その背景を「『会社で出世しなかった』『起業に失敗した』『好きなことを仕事にできなかった』など、社会的・経済的に自信を持てない人が同窓会に出席したがらないのは理解できるところだが、一方で『同窓会に行きたい人』『幹事をやってしまう人』はどんな人なのだろうか? 本書ではこのテーマについての考察もされている。
懐かしい人との再会の場であると同時に今の自分を試される同窓会は、卒業からこれまでの人生の『答え合わせ』の趣もあり、人にとっては残酷な行事かもしれない」と一冊の本を紹介している。
原点に戻って考えてみれば、同窓会とは「わたしは成功者」という(思い込んでいる)人だけが集まって、旧交をあたため合う場なのだろうか⁉️
もしそうであるならば、現代の「イジメ問題」や、昔の「村八分」の構造となんら変わらないのではないだろうか。
「同窓会」が非営利・準公益の団体であるという前提に立つならば、個人情報を守りつつ、全員を目標に出来るだけ多くの同窓生が集うことが本来の目的だろう。
その意味では、記事が指摘するように学年全体が集まってワイワイで談笑する飲み会が、自ずと少なくなっていくのは自然な流れともいえる。
🔷 週刊誌の編集長クラスらが 集まる会費が “飲み放題4,000円”⁉️
かつて、マスコミ業界の週刊誌の編集長や通信社、経済誌、業界紙の記者などが情報交流会飲み会を頻繁に開き、そこに情報を提供したい大企業や巨大宗教団体の副会長たちも参加していた。週刊文春や週刊現代、週刊新潮、週刊ポスト等の編集長クラスが、参加者と気さくに話していた。大手新聞社やテレビ局の記者クラブ制による既得権益に対する義憤もあった。
新宿等の安酒場での会費は、おつまみ注文自由、飲み放題で一人3,000円から5,000円、飲み放題の料金としては、誰でもがポケットマネーで参加できる金額だ。参加も自由なら、帰るタイミングも自由。二次会は気が向いた人数によって、安いスナックに流れることもあった。
出色だったのは、その幹事をつとめる人物の姿勢だった。日頃から会員にこまめに連絡を取り、困ったことや相談事があれば何でも相談に乗って、メンバーの中に力添えできる人がいれば紹介していた。飲み会では、参加者に漏れなく声をかけ紹介して孤立することのないようコマネズミのように席を渡り歩いていた。参加者特に新参は、一人一人全員に紹介して回っていた。
すでに鬼籍に入られたが、こういう人を “クワを担いだ耕しの人” というのだろう。
その人は、Iさん。「MJ研究会」の事務局長を務めた人だ。
🔷 小さくまとまり、異端者や突出した人物を疎外する“ふるさと”の友だちの輪❗️
室生犀星の詩に色濃く流れているふるさとへの“絶望”あるいは“諦念”を抱かせる何かが「ふるさと」にはあるのだろうか?
『東洋経済』がこの点について取り上げている。
「地方を滅ぼす『成功者への妬み』のひどい構造 『3つのネチネチ』で成功者はつぶされていく」と題する記事だ。(出典:東洋経済ONLINE 2018/10/24 5:30 木下 斉 : まちビジネス事業家)
「挑戦者や成功者を潰す「3つの方法」とは?
では、どうやってそうした成功者を潰しにかかるのか。やり方はそれこそ多種多様ですが、ここでは典型的な3つの方法について触れたいと思います。
(1)事業に予算をいれて潰す(中略)
(2)事業を横取りして奪って潰す(中略)
(3)風説の流布で人格否定をして潰す
さらに、最悪の場合が(3)の風説の流布でしょう。「気に食わない」ということで怪文書やネット掲示板などにあることないことを書いて、挑戦者、成功者を陥れようとします。」
この中の、⑶が犀星をして「異土 の乞食(かたい)となるとても帰るところにあるまじや」 と歌わしめた可能性の一つ。
あるいは、著名になると周りに “友だち” 群がり、その盛名を利用されたことがあったのかも知れない。
犀星にすれば、利害得失のない「友だち」として迎えてくれたなら、このあまりにも有名な詩は生まれなかったのかも知れない。
記事は続く
「さらに、こういう場合、地元議員が事業に絡んでいることが少なくありません。議員が直接、あるいは間接でも信憑性のないことをもとに議会で『黒いうわさがある』などといって質問して、さも実際に発生しているかのような事実へと仕立て上げてしまったりします。また地元のメディアも息がかかっているか、あるいはニュースが少ないため、いざこざがあると批判的論調で取り上げてしまうこともあります。問題なのは、事業の内容だけではなく、安易な人格攻撃に政治、行政、メディア組織が便乗するケースがあることです。
結局、地元では『触らぬ神に祟りなし』ということで、せっかく頑張っていても『うわさのある人』というレッテル貼りがなされ、多くの人が離れていき、仕事に大きな支障をきたすこともあります。時に、精神的に病んでしまったり、病気で倒れてしまう人さえいるほどです。
恐ろしいことに、こういう場合、ほとんどのケースでは地元の一部が騒ぎ立て、多くの人は無関心です。仮に事情はわかっていても、頑張っている人が潰されていく姿を、黙って見ていることが多くあります。そこには『自分には関係ない』と無関心を決めこんだり、心のどこかで挑戦者が失敗する姿に安堵したり、成功者がたたきのめされる姿を期待するという心理もあるでしょう。」(出典:同上東洋経済)
さらに筆者は「すばらしい成果や業績をあげた人の共通点は『地元から離れれば離れるほど、その評価が全体的に高くなる』傾向にあります」と辛辣だ。
この記事を読むと “ふるさと悪者説” に立っているようだが、似たようなケースは古今東西、何処にでも見られるから、真実をついてはいるが、取り立てるほどの悪事ではないのだろう。
だが、『同窓会に行けない症候群』の背景には同じような「心理」があるようだ。
🔷「項羽」を見捨てた“ふるさと”「楚」の歌
ここぞという時に、“ふるさと” から裏切られた歴史上の人物もいる。
「時に利あらずして推ゆかず」と辞世を歌い、漢の高祖「劉邦」との覇権争いに敗れ自刃した、かの有名な「項羽」は、「楚」(秦に滅ぼされるまで中国大陸の南方を支配した大国)の出身だ。
「項羽」は、いわゆる小さな成功者ではなく大きな敗残者だろう。
しかし、世界の歴史に残る人物であることは確かだ。その彼を見捨てて、最後の決戦を諦めさせたのは、漢の高祖「劉邦」に寝返った“ふるさと”『楚』の兵たちが歌う楚歌だった。「四面楚歌」という四文字熟語にもなっている。
「項羽」ほどでは無論ないにせよ、あなたの周りにも大きな志を持ちチャレンジし、戦いに敗れた人物がいるかもしれない。同窓生のなかに❗️
🔷 『同窓会に行けない症候群』に治療法はあるのか⁉️
会えない友に会えるからこそ、「同窓会」には大きな意義があるのだろう。先立った友の消息も含めてだ。できれば全員が顔を合わせられれば理想だが、来る来ないは個人の自由だ。それは叶わないとしても、
⑴ 亡くなった友の消息を持ち寄る
⑵ 音信不通の同窓生に一人でも多く連絡する
⑶ 来たくなったら来やすくするため、親しい友だち間でのネットワークを活用する
⑷ 参加会費を安くして、経済的に豊かでない仲間にもハードルを下げる
⑸ 時代に合わせ、メールや写真だけの参加もとりいれる
など、工夫は様々だ。その苦労をするのが幹事の役目といえる。
同窓生ならばこそ、利害関係なく、学生時代に戻って旧交をあたため合ったり、亡き友を偲んだりできる。
同窓生ならばこそ、“成功”だの“失敗”だの、という社会から見た評価とは別の見方ができる。
同窓生ならばこそ、友が何を志し、何に人生の目的をおいて戦ったのかに耳を傾け、夢を叶えた友も、叶わなかった友も、挫折した友も一緒に語り合える。
同窓生ならばこそ、音信不通になっているヤツほど「アイツどうしてるのかな❓」と会いたくもなり、消息も聞きたい。生きているとわかっただけで安心出来る。
そうは言っても、事はそれほど単純ではない❗️
ある同窓会の幹事が言ったという「同窓会名簿に載せられない様な事をしていたのは誰だ。(数ヶ月遅れだろうと)同窓会の案内がどんな方法でも届いた事を喜ばないと❗️」なる発言に、“ふるさと” のホンネが浮かび上がる。
“ふるさと”に住み、気の合ったもの同士、世俗的な成功者が集まり、自分たちのステータスを確認したくなるのが “人情” だ。異端者や胡散臭いやつ、よく分からないものは排除したくなるのだろう。
また、日本の社会全体が、「6割の中間層が、2割の成功者を妬み、いろいろな意味で下層の2割を蔑んで成り立っている」とよく言われる。だから、同窓会の運営もそうなりがちなのはある意味で仕方のないことかも知れない。
それでも、思い起こすのは、MJ研究会のIさんの幹事役に徹する姿だ。「そのこころもて」同窓会の方向性を少し変えれば『同窓会に行けない症候群』も軽快すると考えるのだが・・・。
成功者も失敗者も、富める人も貧しい人も関係なく、成功者のそこに至る苦労譚に耳を傾け、失敗者の理想と叶わなかった夢の大きさに拍手する友が一人でもいれば、ひと味違った同窓会になるだろう。
女性の場合、結婚している事は幸せで、離婚者は不幸せという誤った思い込みは無くすに越したことはない。
せめて、亡き友を含め、同窓生全員の安否だけでも分かれば
♫「い〜つまでも〜絶えることなく〜 友だちで〜いよう〜」「ま〜た 会う日まで〜」
と歌った “絆” を確かめ合う有意義な場に、その同窓会は、なるだろう。
そうなると、犀星にあのような詩を作る情動は生まれなかったかも知れないが、“ふるさと”のイジメは、昔も今も、受けとめ方によっては、有用な一面もあるということだろう。
以上