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『令和』の時代に朗報❗️「仁徳天皇陵」はじめ49基の古墳群『世界遺産』登録確実に‼️ 改めて知る“信じられない政治システム”「天皇制」の不思議⁉️

🔹国内最大の前方後円墳である「仁徳天皇陵」を含む全49基の「百舌鳥・古市古墳群」が、『UNESCO 世界遺産』に登録される事が確実になった。

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世界遺産に登録される「百舌鳥・古市古墳群文化庁の公式ホームページから引用

 

    文化庁の発表によれば、我が国の推薦を受けて「イコモス」(ユネスコ世界遺産委員会の諮問機関)による評価結果が同センターから通知され、「第43回世界遺産委員会(令和元年6月30日~7月10日,於:アゼルバイジャン)において,イコモスの「『記載』(Inscription)が適当である」という勧告を踏まえ,世界遺産一覧表への『記載』の可否が決定される。」という。出典:文化庁公式ホームページ

 

🔹仁徳天皇陵は、『古事記』の干支崩年に従えば、応神天皇崩御西暦394年から仁徳天皇崩御 西暦427年までの間、33年間在位された16代 仁徳天皇の御陵と言い伝えられている。

 

    一説によると、当時、外国賓客接遇の交通路であった大和川から2〜5キロの至近に造営された「仁徳天皇陵」は、他の古墳群と相まって、大阪湾から大和川を遡上して奈良へ向かう中国始め海外からの大使、通使、朝貢使などの賓客を驚愕、畏怖させる威容だっただろうと云われている。

 

    「まさか❗️大和なんて東夷の一国と思っていたが、わが国と匹敵する技術、文化をもっているの⁉️これは侮れないぞ‼️」と思わせであろうことは、あながち否定できない。

 

    大きさもさることながら、前方後円墳の美しさと、その墳丘を荘厳したと思われる「埴輪」や、勝手に想像を膨らませれば赤銅色に輝く「銅鐸」等の銅器は、『大和王朝』の土木技術や文化の高さを第一印象から知らしめるための巨大前方後円墳であったと学術的に想像されている。

 

    墳丘部だけでも、長さは486m、後円部の高さ35.8m(12階建のビルそ相当)、前方部の高さ34m。環濠(まわりの堀)も入れると全長840m、幅654mという巨大さ。出典:堺市ホームページ「仁徳天皇陵古墳百科」

    その巨大さは、後述の「秦始皇帝陵」に匹敵する❗️

    


    墳丘は墓そのものであるが、周囲からは埴輪や土器なども発見されていて学術的想像を裏付けている。

 

 

🔹エジプト🇪🇬の世界遺産の筆頭で世界七不思議の一つでもある「クフ王のピラミッド」でも、底辺は230.37mというからスッポリ二つのピラミッドが墳丘部におさまる。

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エジプトの世界遺産クフ王のピラミッド」(写真はウィキペディアから引用)

 

🔹「仁徳天皇陵」が世界遺産になれば、同じ墳丘として世界的に有名な中国🇨🇳「秦始皇帝陵」と並び、名実ともに公式に発掘されたことがない “未発掘の墳丘” が日中両国に「世界遺産」として存在することになる。

 

    「始皇帝陵』は、二重の外壁に囲まれ、高さは76m。外観は小高い山状になっている。司馬遷の「史記」によると、地下には宮殿があり、侵入者を射る弓が設置され、水銀の川が流れ、天井には宝石と真珠が散りばめられていたとされている。

 

    「そして、調査により、墳丘の地下30mのところに、東西170m、南北145mの地下宮殿があることが判明したという。また、水銀の濃度が自然界よりもはるかに高いという調査結果も得られ、水銀の川があったという記述を裏付けている」ようだが、どういうわけか、「中国政府はその後の調査を行なっていない」という。出典:世界遺産オンラインガイド2019.

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中国の世界遺産秦始皇帝陵」(世界遺産オンラインガイド2019から引用)


🔹こうなってみて初めて、学会の調査を不許可にしてきた宮内庁の判断は間違っていなかったことがわかる。もし調査させていたら、「高松塚古墳」のように観光客に踏み荒らされ、壁画は外気に触れて急激に劣化して、もはや『世界遺産』として世界の国民から守られる存在たり得なかった恐れが大きい。

 

    高みから、民の家々の竈から煙が上がっているのを御覧になって、「民の食が足りている」と喜ばれたという言い伝えが残っている。もちろん学問的に真実であるかどうかなど証明できようはずがない。

 

    大震災の時に、被災者を案じられ終始寄り添われた“平成天皇皇后両陛下”。

 

    民を思い、この国を思い、終戦の決断をされ「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と語りかけられた“昭和天皇陛下” の御心も同じだろう。事実かどうかではなく、仁徳天皇以前から貫かれている 「天皇なるもの」(故玉置和郎総務庁長官の言葉)の“精神的原型” (同左) が残されており、天皇家に脈々と伝わっていることが代々の天皇の行いを通じて理解できる。

 

🔹末筆ながら、昭和天皇陛下の終戦詔勅(口語訳)を一部引用させて戴き、稿をおきたい。

朕(ちん=私)は帝国と共に終始、東亜(東アジア)の解放に協力した同盟諸国に対し、遺憾の意を表せざるを得ない。

 

    帝国国民には戦陣に散り、職場に殉じ、戦災に斃(たお)れた者及びその遺族に想いを致せば、それだけで五内(ごだい)(玉音は「ごない」=五臓)が引き裂かれる。且つまた戦傷を負い、戦災を被り、家も仕事も失ってしまった者へどう手を差し伸べるかに至っては、朕が深く心痛むところである。

 

    思慮するに、帝国(旧大日本帝国)が今後受けなくてはならない苦難は当然のこと尋常ではない。

 

    汝ら国民の衷心も朕はよく理解している。しかしながら朕は時運(時に利あらずして敗戦したこと)がこうなったからには、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、子々孫々のために太平を拓くことを願う。」昭和20年8月15日

 

🔹覇権と徳政を調和する “ 信じられない統治システム ” 「天皇制」‼️

 

    まったくと言っていいほど事前に騒がれず、マスコミも報じなかった今回の「仁徳天皇陵」の「UNESCO 世界遺産」登録のニュースは、改めて、今を生きる我々に教えてくれたようだ。

    それは、どこの国も成し得なかった古来の伝統的政治システムである『天皇制』が、実は、

 

    覇権争いに勝ったものが支配するという最も自然な “現実” と、

 

    民が天皇に忠誠を貫き、天皇の絶対的な権力に「正当性」を与える一方、天皇は、民を「おおみたから」と位置付け、二千年以上に亘ってその生活と安寧を願い続け寄り添い続けるという “理想” と

 

    を調和する、信じられない “統治システム” であったことを‼️

 

    “ 覇者によって繰り広げられた血で血を洗う皇位継承争い” こそが、そのシステムの “不思議” を解く鍵であったこともこの機会に触れておきたい。

以上