unominews’s blog

鵜呑みにするのは危険なネットNEWS!“鵜呑み”にしても安心なUNOMINEWS‼️

【究極の終活】『家族に看取られて亡くなるのが幸せ』という常識がくつがえる‼️孤独死のチベット僧が虹色の光に包まれた⁉️ チベット仏教の極意書「チベットの生と死の書」 を読み解く  #終活 #臨終 #チベット #仏教の奥義 #幸せ

f:id:unominews:20191212160521j:plain

チベットの生と死の書」(詳細は文末)


🔷
『家族に看取られて亡くなるのが幸せ』という常識がくつがえる‼️

 

チベット仏教の師たちは、死にゆく人の枕元に、嘆き悲しむ親族や、友人達を連れてきてはならない、とアドバイスする。そんなことをすれば、死の瞬間に心をかき乱す情念が涌きかねないからだ」p412

 

 愛する人がそばにいれば、やはり別れるのがつらい。もっと一緒にいたい。孫の行く末に心も残る。残してゆく愛人にも後ろ髪を引かれる。なぜ自分だけが一人でいかなければならないのか・・・。執着といえばそうだが、誰しもそうなって当然だろう。

 

 だからこそ、NHKスペシャル「チベット死者の書」でも、枕元には死を導ける導師〈グル〉だけで家族は誰も近寄ってなかった。

 

🔷 孤独死チベット僧が虹色の光に包まれた⁉️

 

『最高の能力を有する中程度の修行者』は、 路傍の乞食のように死んでいく。このような修行者の存在に気づくものはいず、修行者を妨げるものも存在しない」という。

 

 実際に、

 

 「チベットでよく知っていた年老いたヨーガ行者は、ある日、僧院の境内で亡くなっていた。 道の真ん中、ゴミの山の上で、いつものように犬を傍らに置いて。その後、予期せざることが起きた。多くの人々が見守るなか、修行者の遺体は燦然と輝く虹色の光に包み込まれた」(p420p421)というから驚きだ。

 

 ただ、この書を読んだだけで、こうなるとは思わないほうが良い。一生、〈死〉を見つめ続けてひととは違って当然だ。「最高の能力」もないだろうし、「中程度の修行」もしていないだろうから。ましてや、〈 師 〉にも付いたことがなければなおさらだ。

 

 だが、一見幸せな人生を送って見える人でこうした実践を知らない人よりは、はるかに良いだろうことは読み取れる。

 

 

🔷 「非本質的な活動や興味に手を広げることをやめ、人生をより〈単純化〉すること」‼️

 

 「チベット仏教の師ソギャル・リンポチェが、チベット古来の智慧と、現代の宇宙の本質に関する研究成果を元に『生』とは何か、『死」とは何かを、宗教・国籍を問わず全ての人々が受け入れられるように解説していく。死にゆく近親者を助けるために、自身の死の恐怖から逃れるために、人はどうすればよいか。その方法を、実践可能な形で提案し、死に対するネガティヴなイメージを変えていく。死に怯える現代人の魂を救済し、死に新たな意味を見出す書」と内容紹介にはある。

 

「一生を瞑想をして暮らすということではない。バランスをとること、中庸の道を歩むこと、人生をより単純化すること」「非本質的な活動や興味に手を広げることをやめ、人生をより単純化することを学ぶことである」出典:「チベットの生と死の書」 p60 ー以下同じ)

 

 その実践は、要するに、人生をより〈単純化〉することだという。死に備えること以外は差し当たって急ぐことはない。自分史づくりも、自分磨きも、友だち付き合いも取りあえず横においといて、余計なものを削ぎ落として削ぎ落としてみることなのだろう。いわば人生の断捨離といえようか。

 

🔷 「あなたは来世を信じますか?」

 

 虫だろうが魚だろうが命に変わりがないというのが本当なら、ゴキブリや蚊を殺しても地獄行きは必定というのも本当だろう。誰もそんなことを考えながら暮らしてはいまい。そして、本当かどうかは死んでみなければわからない。だが、万が一にも本当だったらどうするのか。そのときになって慌てても手遅れというのも本当だろう。

「〈 師 〉は、ただ一つ簡単な質問をする。『あなたは来世を信じますか』と」(p34)

 

 我々の信じている来世は、この書によって問いなおされる。

 

 死んだ後に花園などない。自分の心のおぞましさにふさわしい世界に行くしかないのだ。それでも最終回の逆転ホームランは可能だと本書は教えようとしている。なぜなら・・・

 

〈バルド〉が特に解脱のための絶好の機会p39

 

 だからだ。〈バルド〉とは死の瞬間と考えればわかりやすいだろう。

 

 孤独死の恐怖に怯える人、病床で訪れる家族も途絶えがちな人、今まで善いことの一つもした覚えのない人、集団のなかの孤独に苦しむ人、イジメにあっている人、自殺を考えている人、寝たきりの人・・・にも希望があるという。

 

「妻たちも愛人たちも、おざなりな祈りと遠くから花を投げるだけ。死の苦痛をより一層耐え難いものにする。こうして一人悲嘆のうちに死んでいく」p35

 

 愛する家族も、じつは死者のことは二の次で、死者が死の瞬間、何を切実に願っているかよりも世間体しか考えていないことは事実だろう。仕方がない、死んだ経験がないのだから。

 

 そして、『故人は天国へ召されました』という言葉を根拠なく鵜呑みにして、心配すらしない。それが日常というものだろう。だが・・・

 

「〈死〉への絶望も陶酔も、ともに逃避だ」p37

 

 死んだら楽になるということもなければ、今さら手遅れということもないというのだ。それを証明するのが次の一文だ。

 

「来世でどのような誕生を迎えるかは、現世における自分の行為の質によって決まる、ということである。ただし、行為がどのような結果をもたらすかは、ひとえにその行為の裏にある意志や動機によるのであって、行為の大小によるのではない。これは、決して忘れてはならない重要なことである」。p185

 

 来世は行為の結果で決まるのではないという。だから、失敗続きの人でも落ち込むことはないのだし、成功しなければと凝り固まることもないのだ。「行為の裏にある意志や動機によって」来世は決まるのだとすれば、寝たきりでも、孤独でも人の幸せを願い続ける人は来世は良いところに生まれることになるということだろう。

 すべての人に挽回のチャンスがあり、究極の栄光に包まれることができると言っているのだ。

 どこまでも死にゆくものに優しいではないか。

 

🔷 歩道で若い女性たちが立ち話をしていた。「有意義なことをしたいじゃない⁉︎」と。ところで「有意義なこと」ってなんだろう

 

 人は、何か有意義なことをしたいという潜在的な欲求があるからなのだろうか、様々なボランティア活動市民大学講座受講やヨガ教室・エステといった自分磨き、札所巡りや写経といった癒し系、パッチワーク・陶芸などの趣味、料理レシピや便利な暮らしのアイデアSNSで公開” etc

 

 いずれも、それなりに有意義だろうし、楽しいだろうし充実していることだろう。

 

 だが、チベットの人たちは、そんな生活の充実感や便利さは、二の次だと考えて二千年間生きてきた。

 

🔷 あの「明石家さんま」も⁉️

 

 今から15年も前になるが、「明石家さんま」と幼稚園、小学校、中学校のこどもタレントたちが親子関係を天真爛漫に語るトークバラエティーあっぱれさんま大先生」という人気番組があった。

 

 そこで「明石家さんま」が連想尻とりゲームのなかで、こんなことを言っていた

お前ら知らんやろ。貧乏が一番幸せなんや!」と。子どもたちは「ウチは貧乏だから・・・」とか「貧乏はヤダ」と屈託なく言っていたのに対してつぶやいた一言だった。

 

  チベットの人々は、環境を快適にしようとして時間を費やすようなことはしない。食べるものがあり、着るものがあり、頭の上に屋根があれば、それで十分」p54

 

 豊かさや生活の便利さなどはどうでもいいことだと言い切る。

 

 世界有数の先進国、長寿世界一の日本のお笑いタレント「明石家さんま」が言っていた奇異に響く一言が、世界で最も文明から隔絶されたチベットの人々にとっては常識だったとは。

 

 どんな境遇にあろうと、どんなに貧乏であっても「生きてるだけで丸儲け」という彼の口癖の裏には、彼自身も気付いていない人生の奥義が潜んでいるのだろうか。

 

🔷 チベット仏教」は迷信なのだろうか

 

 悠久の時の流れのなかで、現代の私たちと、昔々の人とどちらが純朴だろうか?

 

 この地球上において、都会に住む人と、田舎それも山奥や寒村に住む人々とどちらが純朴だろうか?

 

 地球上で最も純朴と思われるチベットの人々が、二千年前ー日本では邪馬台国すら無かった時代ーから語り継ぎ、その数限りない〈死に様〉で検証されてきた「伝承」、それが具に説かれているのが「チベットの生と死の書」だ。

 

 そこには、彼らが二千年にわたって守り続けてきた「チベット仏教」(チベット密教とも言い、弘法大師空海が師資相承された密教の源流)の精髄が説かれている。

 

🔷 NHKスペシャル『チベット死者の書

 

 26年前、1993年のこと。「チベット死者の書」という番組が、NHKスペシャルで放送された。

 

 同番組では、死後の世界「バルド(中有)」を映像(CG映像)で描いて見せた。チベット僧が亡くなったばかりのチベット人の枕元で「死者の書」(日本でいう枕経の原点)を耳元で読み聞かせ、その魂を導く様は衝撃的で、一大ブームとなった。

 

 NHKスペシャル『チベット死者の書』は、ジブリ学術ライブラリーからもDVD化されている。あの「風の谷のナウシカ」等のジブリ・アニメを世に送り出した「宮崎駿監督」も繰り返し見て感銘を受けたという。

 

🔷日本の仏教とはまるで違うチベット仏教の奥義

 

 今回とりあげた「チベットの生と死の書」は、さらに深くその奥義まで踏み込んでいて、一部難解な瞑想などの儀式に触れた箇所もある。

 

 ところが、実生活における疑問には、逆に、とても分かり易く答えている。

 

 例えば

 

疑問:回復の見込みのない愛する人の生命維持装置を外すことは(仏教上の)罪にならないのか?

「回復の見込みのない人に、生命維持装置をつけても全く無意味である。それよりも安らいだ雰囲気の中で、自らのために善行を積みながら、自然に死んで行けるほうが、死にゆく者にとってずっとありがたいはずだ。すでに生命維持装置が取り付けられていても、何ら回復の可能性がないなら、取り外しても罪にはならない。人工的な装置によって無理に生命の糸を繋いでいるだけだからだ」(ディンゴ・キェンツェ・リンポチェ)(p636

 

疑問:蘇生措置はしなくていいのか?

蘇生の試みはしばしば不要なだけでなく、死にゆくものを必要以上に苦しめる」

p637

 

疑問:自ら生命維持装置を外すことを望む場合はどうなのか?自ら命を絶つのは悪しきカルマを積むことになりはしないか?

「これはカルマ的に言えば不善の行為ではなく、生きとし生けるものの根源的願いである苦しみの回避を望んでいるに過ぎない。それゆえカルマ的には、これは善の行為でも不善の行為でもない、中立の行為となる」(カル・リンポチェ)(p640

 

 と仏教の教理から説いて明快だ。

 

🔷 本当の「終活」って何だろうか

 

 「終活」という言葉が流行り言葉になってかなり経つ。ところで、本当の「終活」って何だろうか。

 

 ただ「遺言書」を書いておくことや、遺品を整理したり、自分史を出版したりすることなのだろうか?

 

仏教徒が現世よりも来世を重視するのは、この冷厳な認識のせいである。つまり、未来にははるかに多くのことが待ち構えているのだ。この長期的視野が、仏教徒たちの生き方を決定している」p195

 

 生は刹那で、死後はとても長いぞと教えているのが仏教だ。(経典では人間界に生まれ変われるのは3000年に一度霊界に咲く「優曇華」の如しともいう)

 

 「ゆく川の流れは絶えずして、淀みに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためし」(徒然草)といい

 「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」(平家物語)といい、

 「色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山けふこえて 浅き夢見し酔いもせず」(いろは歌書き下し)といい

 

 日本文化の底流には懐かしさとともに無常観がある。だが、現代に生きるわれわれは、その実感を忘れ、言葉でしか〈無常〉を知らない。

 

 〈師〉らは言う。

 

「生の儚(はかな)さを知っている人だけが生の尊さを知っているのだろう」p60

 

 チベットの人々にとっては、死後の世界こそが大事であり、かつ長いのであって、今世の〈生〉などは実に短く儚(はかな)いものだという。

 

 そして、かれらは常に〈死〉をおもって暮らし、〈死〉に備えた生き方をしているのだ。どういうことかというと・・・

 

「名前、生涯の記録、伴侶、家族、家、仕事、友人、クレジットカード・・・、それら一切が取り去られたとき『自分は誰だ』」p47

 

 静かに〈自分〉というものを見つめてみることだ、という。そして、

 

「女を追いかけ回したり、金儲けをしたりといった気散じにかけている時間のその十分の一を修行に費やしてごらん。二、三年のうちにお前は悟りを得るだろうよ」

(インドの聖人ラーマクリシュナ)p53

 

 耳の痛い話だ。たった23年で悟りを得たあとはその実践なのだろう。

 

 言いかえれば、チベットの人々は、チベット仏教僧の指導のもと、生まれ落ちたときから「終活」し続けているようなものだ。

 

 こうしてみると、「終活」で最も大事なことは『自分を静かに見つめてみること』なのではないだろうか。

 

 あの宮崎駿監督も感銘を受けた「死者の書」の世界だけに「終活」を本気で考えている人には「眼から鱗」だろう。

 

🔷著者は、「ソギャル・リンポチェ」(「リンポチェ」とは転生者の尊称)

 

 〈 〉はチベット仏教の師。チベットで生まれ、20世紀で最も尊敬を集めた精神的指導者のひとりといわれる。中国によるチベット占領で、師ジャムヤン・キェンツェと共に国外に逃れるが、1959年の同師の死去後、デリー大学ケンブリッジ大学で比較宗教学を学んだ。

 

 仏教は〈師〉が何より大事で 「〈師〉のない仏教はない」といわれる。

 

 著者の「ソギャル・リンポチェ」(リンポチェとは、高僧の転生者と認定を受けた僧の称号)の〈師〉は、

 

ジャムヤン・キェンツェ・チュキ・ロドゥ(一八九三〜一九五九)=今世紀における最も卓越したチベット仏教の師。すべての師資相承の保持者であるとともに、さまざまな伝統の権威でもあり、チベットにおける超宗派運動の中心人物。

 

 〈師〉のほかに

 

 チベット最高位のヨーガ行者にして、学者、瞑想の師。パドマサンバヴァの化身といわれるドゥジョム・リンポチェ(一九〇四〜一九八七)、ジャムヤン・キェンツェ師のもっとも優れた弟子であり、ダライ・ラマ法王を含め数多くの高僧たちの師であったディンゴ・キェンツェ・リンポチェ(一九一〇〜一九九一)、ジャムヤン・キェンツェ師の霊的配偶者であり、チベットにおけるもっとも優れた女性の師であるカンドゥ・ツェリン・チュドン

 

 からの指導も受けたと同書にはある。現代チベット仏教最高の 〈師〉 の一人に数えられる人物だろう。

 

🔷死の床の絶え間ない痛みの中で、世界中の苦しみを代わって受けることで、どんな悲惨な人生も逆転できる⁉️

 

疑問:何の修行もせず、いまや死の床にあって長い苦痛に耐えている人は救われないのか?

・「もしも、あなたが癌や エイズを患っているのなら、 一心に想いを凝らして、世界中であなたと同じ病気で苦しんでいる人を想像してみなさい。

 そして、深い慈悲をもって自分自身に語りかけるのだ。「この恐ろしい病にあるすべての人々の苦しみを、私が引き受けよう。彼らがその悲嘆から、その苦しみから解放されんことを、私は祈ろう」と。

 すると、病が、腫瘍が、煙となって彼らから離れてゆき、あなたの病の中にあなたの腫瘍の中に入り込んでくる。そう想像しなさい。息を吸うとき、あなたは彼らのすべての苦しみを吸い込む。息を吐く時、あなたは完全なる癒しを、健やかさを吐き出す。この行を行うたびに、今や彼らはすっかり癒されたと、確固たる確信をもって信じなさい」p403

 

・「どんなにひどい苦しみも、それが他の人々の苦しみの軽減に捧げられるとき、それは無意味ではなくなる」p406

 

「誰があなたの財産や金を受け取るのか、厳密に指定しておく。さもないと、死後、再生のバルド(中有)にあって、親族があなたの財産を巡って争ったりしている様子を、目にすることになりかねない。財産のうち、布施に費やす分、宗教的な事柄に費やす分、親族それぞれに残す分をあらかじめ正確に決めておきなさい。全てにわたって事細かく決めておけば、 安らかに逝くことができる」p412

 

出典:「チベットの生と死の書」 (ソギャル・リンポチェ著 大迫正弘+三浦順子=訳 講談社プラスα文庫 発行2010920日)本書は1995 講談社より刊行。

 

以上